皆様こんにちは。
ここ2~3日梅雨らしいジメジメ日が続きますね。
こんな時期は食べ物に注意しましょう。
実は平均気温が25℃前後の時期6月と9月が実は一番食中毒が多いんです 30℃近くなった日の翌日が25℃だと、涼しいと感じてしまって朝作った料理を一日そのままテーブルに放置して深夜に食べる。なんて事はこの時期止めた方が良いですよ
って事で今日は母方の祖父の話で
母方の実家は黒田と言って今は西東京市で私の従兄弟が古物商を営んでおります。祖父の安治さんは明治33年富山県八尾生まれ。明治33年は西暦1900年なので、祖父は19世紀生まれと言う事になります。明治末期に東京に出てきて浅沼さんと言う呉服屋さんの丁稚になり、一生懸命頑張って25~26歳の時独立して神田の衣類市場に着物クロダを開店させました。祖父の店は当時あり得ない呉服屋なのにカタカナ店名、ショーウィンドウ設置で人目を引いたそうです。何故そんな風な店作りをしたかと言うと、祖父がターゲットにしてたのは日本に駐在する海外要人と民間の富裕層だったらしいです。
当時7~8歳だった母曰く、お店の前の道路には連日のように馬鹿デカイ黒塗りの外車が運転手を残し数珠成りに止まっていたそうです。そんな商売を続けられたのも僅か十数年で、やがて戦争になる。一家は祖父の実家がある富山の八尾に疎開し、終戦と同時に神田に戻ったそうです。東京に戻ってきたのは良いが、売る物も買う者もいない。そこで知恵を絞った祖父はありたけの手持ちの金で闇市で砂糖を買い、二人の叔父を連れ汽車のデッキに乗って東北の農家を回る。砂糖と物々交換するのはその家のオバァちゃんオカァちゃんが嫁入りの時羽織った錦の打ち掛け。持参した巨大リュックに詰め込んで叔父達3人と東京へ戻り、針子さんに作ってもらうのは錦のベッドカバーとガウン。これが進駐軍に馬鹿売れし、財を成した祖父はその後西東京田無に移り小口金融業を始めました。
買い付けてベッドカバーにもガウンにも成らなかった着物は、当時の番頭さんの斉藤の憲ちゃんという方に譲り、貸し出しの商売をするよう薦めて、斉藤さんは貸衣装屋さんを銀座の外れに開きました。そのお店が元祖貸衣装屋さんの「あのお店」です。また、西東京に移る時にもう一つの候補だったのが内藤新宿、今の新宿東口駅前だったのですが、色々あった祖父はのんびり暮らしたかったのか、その空き地を当時駅前で戸板に果物を並べて売っていた高野さんと言う人に譲ったそうです。その店が「あの店」です。
お酒の大好きな祖父は孫の私を連れて寿司屋さん、天麩羅屋さん、鰻屋さんに良く行きました。酔ってくると必ず板前さんに「この坊主は次男だから、俺ぁこいつを板前にしようと思うんだ。そん時はよろしくなっ!」なんて言うんですが、言われてる本人は満更な気は何故かせず、オジィちゃんが喜ぶならそれもアリかも?なんて思ったりしました。
なので私が関西に料理修行に出る際も、里帰りして私が造った刺身を食べた時も、最初の吉祥寺の店を開店した時もうっすら涙を浮かべて喜んでくれました。
今外国のお客様も含め連日満席を頂いているのも祖父のお陰と感謝してます。
写真は昭和10年頃、神田衣類市場にあった着物クロダの店頭にて。後列左から二人目が37~38歳の祖父です。
おじぃちゃん有難う!!
ここ2~3日梅雨らしいジメジメ日が続きますね。
こんな時期は食べ物に注意しましょう。
実は平均気温が25℃前後の時期6月と9月が実は一番食中毒が多いんです 30℃近くなった日の翌日が25℃だと、涼しいと感じてしまって朝作った料理を一日そのままテーブルに放置して深夜に食べる。なんて事はこの時期止めた方が良いですよ
って事で今日は母方の祖父の話で
母方の実家は黒田と言って今は西東京市で私の従兄弟が古物商を営んでおります。祖父の安治さんは明治33年富山県八尾生まれ。明治33年は西暦1900年なので、祖父は19世紀生まれと言う事になります。明治末期に東京に出てきて浅沼さんと言う呉服屋さんの丁稚になり、一生懸命頑張って25~26歳の時独立して神田の衣類市場に着物クロダを開店させました。祖父の店は当時あり得ない呉服屋なのにカタカナ店名、ショーウィンドウ設置で人目を引いたそうです。何故そんな風な店作りをしたかと言うと、祖父がターゲットにしてたのは日本に駐在する海外要人と民間の富裕層だったらしいです。
当時7~8歳だった母曰く、お店の前の道路には連日のように馬鹿デカイ黒塗りの外車が運転手を残し数珠成りに止まっていたそうです。そんな商売を続けられたのも僅か十数年で、やがて戦争になる。一家は祖父の実家がある富山の八尾に疎開し、終戦と同時に神田に戻ったそうです。東京に戻ってきたのは良いが、売る物も買う者もいない。そこで知恵を絞った祖父はありたけの手持ちの金で闇市で砂糖を買い、二人の叔父を連れ汽車のデッキに乗って東北の農家を回る。砂糖と物々交換するのはその家のオバァちゃんオカァちゃんが嫁入りの時羽織った錦の打ち掛け。持参した巨大リュックに詰め込んで叔父達3人と東京へ戻り、針子さんに作ってもらうのは錦のベッドカバーとガウン。これが進駐軍に馬鹿売れし、財を成した祖父はその後西東京田無に移り小口金融業を始めました。
買い付けてベッドカバーにもガウンにも成らなかった着物は、当時の番頭さんの斉藤の憲ちゃんという方に譲り、貸し出しの商売をするよう薦めて、斉藤さんは貸衣装屋さんを銀座の外れに開きました。そのお店が元祖貸衣装屋さんの「あのお店」です。また、西東京に移る時にもう一つの候補だったのが内藤新宿、今の新宿東口駅前だったのですが、色々あった祖父はのんびり暮らしたかったのか、その空き地を当時駅前で戸板に果物を並べて売っていた高野さんと言う人に譲ったそうです。その店が「あの店」です。
お酒の大好きな祖父は孫の私を連れて寿司屋さん、天麩羅屋さん、鰻屋さんに良く行きました。酔ってくると必ず板前さんに「この坊主は次男だから、俺ぁこいつを板前にしようと思うんだ。そん時はよろしくなっ!」なんて言うんですが、言われてる本人は満更な気は何故かせず、オジィちゃんが喜ぶならそれもアリかも?なんて思ったりしました。
なので私が関西に料理修行に出る際も、里帰りして私が造った刺身を食べた時も、最初の吉祥寺の店を開店した時もうっすら涙を浮かべて喜んでくれました。
今外国のお客様も含め連日満席を頂いているのも祖父のお陰と感謝してます。
写真は昭和10年頃、神田衣類市場にあった着物クロダの店頭にて。後列左から二人目が37~38歳の祖父です。
おじぃちゃん有難う!!
| Diary | 2017,07,02, Sunday 05:19 PM | comments (x) | trackback (x) |